動機がとんでもなかったですね
先日日本の小田急線で起こった事件。
男性が刃物を振り回し、何人ものけが人が出たという話。
被害に遭われた方がお気の毒で仕方がないと同時に、世界的な大運動家をやっている時期だと聞いてたので厳戒態勢なのだろうと勝手に思っていたので、なんでそんなことが起きるのか?と謎がいっぱい。
挙句に、犯人が動機に関して「幸せそうな女性が許せなかった」とか言ってるらしいですね。
そういう思考に陥る人がいるという事実は聞いたことがありましたあが、とんでもない話です。そしてこれは、この男性が女性に対して思ったことというピンポイントな例ですが…
「幸せそうな人が許せない」という気持ちに基づいた言動はネットの中では珍しくなく。悲しいことです。そしてお気の毒なことです。そういうことを思うことは、自ら呪いを自分に向けてかけているようなものなので。
幸せな人を見たら幸せが伝播する
なんとも暗澹たる気持ちでいたら、こんなツイートが。
幸せな人が幸せを隠そうとしないといけない社会は望んでない。昔私が独身彼氏もいない20代だった時、阪急電車の中で、今日婚約指輪貰ったのかな?という雰囲気を醸し出してた、薬指のダイヤを見てニヤニヤが止まらないお姉さん、めっちゃ可愛かったけど元気かな。私まで幸せをお裾分けしてもらったよ!
— あらいぽまbot (@araiguma_econ) August 7, 2021
全くその通りである。
幸せは人に伝播する。鬱々とした人がそばにいるより、幸せな人がいてくれた方が、そばにいる人間が望もうと望むまいと、穏やかな空気がそこには流れ、少なくともトゲトゲした空気に傷つけられる可能性は低くなる。
穏やかな気持ちでいられるということは、それだけでも貴重なことだ。望まなくても生きていれば苦難は来るし、下手をしたらいつどんな事故に遭遇するかもわからない。
それらを全て避けるのは無理だ。だったらその避けられない機会以外は、できるだけ穏やかに過ごせるのが幸せというものだ。
この方はこう続けておられる。
誰もが「幸せそう」に振る舞えなくなる社会なんてこなくていい。ホントは幸せな人が幸せ撒き散らして、周りを巻き込んで幸せの連鎖が広がる社会の方が、断然いい。「幸せ」も「不幸」も、どちらも連鎖するものだから。気をつけないと。
— あらいぽまbot (@araiguma_econ) August 7, 2021
全くその通りだと思う。
連鎖、という言い方に自分は納得するのだけど、ちょっと不確かというか、迷信めいたものも感じるので、もうちょっと具体的に自分の理解を話そうと思う。
人は自分の中にイメージから行動を選択する
突然ですが、私はペロリーナのような人になりたいと思っている。と言ったら伝わるだろうか。
この場合、ペロリーナがどのような人であるか、どういう状況にあって、どんな性格の人なのかを知らないと、それはいいねとも悪いねとも言えないですよね。
そう、人は「知らないものにはなれないし、知らない何かになろうとするのは難しい」。
元々が持つ性質によりなすがまま、なんとなく行き着いたのが自分だった、というのも悪くはないというか、自分にも多々そういうところがあると思う。
でも能動的に「こういう人間でありたい」と思う時には、その人間像が自分の中にないと目指せない。目指す場所がわからないと交通手段も選べないから、ただただその場でオロオロするだけだ。
幸せには、みんななりたいと言うと思う。ただそれは「幸せな方が良いものだ」という漠然とした概念があるからで、「どんなふうに幸せになりたいか」というのを具体的且つ事細かに今すぐ言える人って、どのくらいいるだろう?
人は、自分の中に持ってるイメージに近づき易くなる。幸せな人を見て素直に喜べる人ほど幸せに近いと思うし、成功している人を素直に尊敬できる人ほど成功に近づける。
だから素敵だな、いいなと思える人の像は祝をして、先のツイートの方のように心に止めるのが吉だと思う。
さらに言うと、そういう事例は多い方が良い。なぜなら、人の幸せの種類はイコール自分の幸せではないかもしれないし、どんなタイプのことがそのときの自分が欲しいと思う幸せかはわからないから。
そういえば、これは旦那さんから聞いた話なのですが、彼が趣味のスポーツをしていたとき。同好会みたいな感じでヨチヨチやっていたところに、突然とても上手な人が参加するようになったのだとか。
するとその人を間近に見るようになったヨチヨチだった人たちが、急にメキメキ上手になったのだと。
手本が近くにあるというのは、そこに自分を導く、ものすごく強いアドバンテージになるのだと思う。それはスポーツのことだけじゃなく、人生だって同じこと。ことわざにも、門前の小僧なんとやら、というのがあるではないか。
幸せになりたいのなら、幸せな人を肯定できる人間であることが幸せに向かう近道ような気がするのです。
ちなみにペロリーナはとっさに作った造語で実存する人でも、特定のイメージがあるわけじゃないので悪しからず。
自分に呪いをかける人
では逆に。
今回の事件の犯人のように、幸せそうに見える人を貶めたり、あまつさえ殺めようとする人は…
幸せでいると人に恨まれる、ということを自分が強烈に体現していることになる。
『幸せになると危険だ、人に恨みに思われる』と言う呪いを自分にかけ、幸せや成功から自らを遠ざける。
だれだって危険な目にはあいたくないし、人に恨みに思われたくない。幸せになるとそれらの懸念が生じると、自分が身をもって示しているわけだから、そのネガティブな思い込みは、やらかした人に最も強く刻み込まれる。
人を呪わば穴二つ、とはよく言ったもの。幸せそうな人の不幸を望む人に、幸は訪れないと私は思う。そしてその人は幸せな人を呪い続け、今回のように人の幸をも引き摺り下ろす。
では人を羨むことはよくないのか?
羨みは自分の望みを知るきっかけに
基本的に、感情的な反応って、自分に対する理論的な把握よりも速度が速いと思うんですよ。そもそも、自分が何を欲しているかを完全に把握してるひとなんていないでしょうし。
全く興味なかったけれども、何かのきっかけでそれを知ったら(あれれ?私これすごいいいかも?)みたいなることってあるじゃないですか。
で、何かの折にとっさに人のことを羨んでしまったり、それが強すぎて妬みっぽく感じてしまたっとき。自己嫌悪に思ってしまうことがあったりしますよね。私も過去に何度かありました。
でもそういう感情が湧いてくる時って、自分もその対象の人が手にしているものを欲しい、と思ってるってことでもあるんですよね。
だって、自分が全く欲しくないものを人が手にしたからって、悔しくもなんともないでしょう?
と言って、自分が欲しいと思うものを全て把握してる人なんていないと思うんですよ。体験してみて初めて(あれ?自分これ好きなのかも?)とか思うことってあるじゃないですか。
それが「反射的な羨み」に現れたりする。そういうのって誰にでもある気がするんですよね。
なのでそんな場面に遭遇したら(こんな自分はいやだな)と思うんじゃなくて、(あれ?自分、こういうのが欲しかったんだ?!)と新しい欲しいものが見つかった、と考えるのはどうかな?と。
モヤっとする気持ちが残るのは、わかる。どんなに良いように捉えようとしたって、その時点で羨ましいものは羨ましいわけで、その時自分の手にはそれがないわけで、悔しいような焦れるような、スカッとしない気持ち。
でもそれを相手にぶつけたり、やり込めようとするよりは(これ欲しいんだったら自分、どうしたらええんやろ?)って方に考えるよう気をつけたら、自分気持ちが楽になると思います。
そして自分に呪いをかけるようなことをしても良いことはなさそうだな、と自分だったら思うので、狡猾に損得勘定をして、お得そうな方を選ぶですよ(๑•̀ㅂ•́)و✧
というか…幸せそうな方が近くにいるといううのは、自分を幸せに近づけてくれているという捉え方、癖づけて行きたいな、と思うのでした。
幸せそうな人に出会えたら、ラッキーだな、と思えるようでありたいものです♪
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