ホーチミンの女性は結構お洒落で、前回二週間だけ遊びに来た際、
ちぇりは、東南アジアだからTシャツに短パンくらいで。。。とか
思って、ラフな格好しか持ってこなかったら、えらいみすぼらしかった記憶が(–)/
とはいっても、ケバい感じではなくて、似合ったお洒落はしているけれど、
元が童顔な人が多いし、実際素朴な雰囲気の子が多くて、
プラス、笑顔を惜しまないので、ホッコリなごまされる場面が多々。
ええなぁ、ベトナムの女の子♪
で、あー、かわいいなぁっ、って思う場面に、「接客」シーンがあります。
不勉強なちぇりは、二か月たっても、あまりベトナム語ができません。
なので、大体英語で通すことになるのですが、ホテルや、欧米の人を相手にする
高いお店ならいざ知らず、ローカルなお店やカフェでは、殆ど英語が通じない。。。
特に相手が年配の場合だと、もうサッパリ(^^;
ま、身振り手振りで何とかはなるから、それはそれで楽しいんだけど、
細かな注文になると、四苦八苦するのは仕方なく、けっこう疲れたりもします。
が、これが若い人になると、多少は英語になじんでいるのか、なんとか、
自分の知ってる単語、自分の知ってる構文で対応して呉れようとするんですね。
決して流ちょうじゃないし、単語並べただけ、みたいなこともあるけど、
「えーっと…なんていったっけな、おみ…お水!冷たいお水、要りますか?」
みたいに、たとえばグラスに水が入ってなかったら黙って注いでいくとか、
入ってたら無視をするとか、やりようはいろいろあると思うんだけど、
話しかけることをあきらめない。
一度海鮮料理のお店で英語がほとんど通じなかった時などは、
グラスワイン一つ頼むのに、5分程もかかったことがある(笑)
赤と白を1っ杯ずつ頼みたかったのだけど、赤しかなかったらしく、
それを説明するのに四苦八苦。そんなの、NO の一言で通せば、
どちらもないのかな、と思ったら怒りもしないし、別のものにするとか、
客側が折れれば済む場面なのに、あきらめず、あの手この手で、一生懸命、
こちらが納得するまで、困った顔をしながらも、一生懸命英語で伝えようと
してくれる。
そんな時、たとえ欲しい商品がなかったとしても、ガッカリするより、
嬉しくなります(^^)
自分を理解しようとしてくれる人がいてくれるとうれしいように、自分に
一生懸命何かを伝えようとしている人の存在って、嬉しいものです。
それが店と客という位置にある関係でも、真摯にこちらに向き合ってくれてる
姿勢が嬉しい。
で、思うんですけど、あんなふうに一生懸命自分に向かって理解を
示してくれる人の言葉が少々間違っていようが、変であろうが、
嘲笑う人っていないと思うんですよね。
(いるとしたら無神経だったり、人を思いやる気持ちに欠ける人だと思うので、
この場面ではそういう人のことは割愛します。)
実際、ちぇりが英語圏で間違った英語を使ったからと言って、笑われたことはないです。
「それは、こう言うんだよ」と修正してくれることはあっても、嘲笑された
ことは、一度もないです。
たとえばほとんど喋れない他の言語で、知ってる単語をつたなく発して、
それがユーモラスに聞こえたからか、微笑ましく笑われることはあっても、
嘲笑されたことなんて一度もありません。
多分、日本の多くの人たちも、海外の人が、怪しげな日本語を使ったからと言って、
それがキュートだとは感じても、なんだこいつ、間違った日本語つかいやがって
恥ずかしいなぁ、なんてことは思わないはず。
だったら。。。。
もっと日本人も、海外でその土地の言語や、理解してくれる人が多い英語を
喋るといいと思うよ。人が間違っても笑わない、と胃っているのに、自分が
間違ったら人は嘲笑う、なんて思いこむのは、一貫してない。ちぇりから
すると、間違うことを恐れて、話しかけてくる人を無視したり、顔の前で
手をパタパタ振って逃げる方が、余程残念。相手だって、話しかけるのに
勇気が要ったはずなのに。
まぁ、英語を習い始めたころから、間違えると「×」をもらって叱られる
教育を受けてきたから、相手に失礼とか、そういうことを考える前に
条件反射で逃げたくなる気持ちはわからないでもないけれど、
物事は、時々反対側から見てみると、その矛盾に気づけるものです。
自分は、一生懸命伝えようとしている人を嘲笑ったりしない、というのではれば、
自分が一生懸命伝えようとしたとき、嘲笑われるはずがない。
と考ないと、一貫性がなくなっちゃうよね?
なので、間違ってようが、ちょっとばかり変であろうが、伝えよう、という
意欲を持って、どんどん海外でコミュニケーションを取ろうとしている人を
見ると、ちぇりは、ああ、この人は人の言葉の失敗を嘲笑したりしない人だろうな、
おおらかに付き合って行けそうな人だな、と受け取ります。
といって、恥ずかしさが先に立ち、しゃべれない人達を一概に、
(この人たちは人の失敗を嘲笑う人なんだな)とは思いませんが、
悪く取ろうと思えばそう言えなくもないし、どういう人を、よりレスペクト
するかな、と考えたときは、前者を圧倒的に支持します。
多言語を喋れないことが悪い、とは言いません。
ちぇりにだって喋れない言葉の方が圧倒的に多いわけだし、できないことだって
山ほどある。できる人から見れば、なぜその程度のことができない?と思われる
ことがたくさんある。ちぇりはたまたま英語がすきだったから、なんとか日常
生活の言葉くらいはできるけれども、それもたまたまそうだった、というだけのお話。
ただ、「間違うと恥ずかしい」ってのが理由だとしたら、ね。
それは相手を、「この人は間違った人を嘲笑する人なんだ」と言ってるような
ことにもなりかねないのでね、失礼な理由だな、と思うわけです。
もちろん、そこまで裏読みをする人はいないだろうし、恥ずかしがってる人に
そんな悪意がないこともわかってるんだけどね。
そういう意味合いが含まれていると指摘されても、仕方ないよ、と。
その見えない意味合いこそが、壁を作ってしまうこともあるんじゃない?と。
ま、それを言うなら、英語の便利さんにかまけてベトナム語をあまり
勉強していないのは、「この国の言葉を尊重する気がないんですね」と
取られても仕方がないってことになるから、わが身に返ってくる話なんだけどね(^^;
外に出ることばかりが良いとは言わない。
自分の意志で外に出てきた人ばかりじゃないのも、理解してる。
でも、エレベーターで声をかけても挨拶もしない、とか、話しかけられても、
「わからない」の一言も発せず、無視を決め込む日本人を見てると悲しくなるのです。
挨拶に、笑顔も返さないなんて、日本人くらいのものなんだもの。この辺りでは。
せめて、もうちょっとだけでもオープンに。
自分に笑顔が向けられたら、それに笑顔で返すくらいはできてほしい。
それが大人の器量ってもんでしょ。恥ずかしがり屋だから、で、無視を決め込む
失礼を正当化するのは、全く子供っぽいと思うのですよ。
だから、間違えることを怖がらずに。
世の中のほとんどの人は、それを嘲笑ったりしませんから。
それくらい、おとなな人がほとんどですから。
そういえば、5歳の子供に、ちぇりの英語が直された時、
『それは違う言い方だけど、でも英語上手だね♪
イッパイ勉強したんだろうなぁ。僕もいつかそのくらい日本語が
できるようになりたいな』
ってフォローされたことがあるよ。
あの子の方が、よっぽど大人だわなぁ(´Д`)
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コメント
その5歳の男の子、素敵だねえ(^^)。
旅行や留学を通じて、「やっぱり語学は度胸!」だとつくづく思いました。
一番英語が上達したなと思うのは、ホストマザーとの大げんか(とにかく単語を並べてた^^;)だったし。
フランス旅行をした時に、現地で使ったコインランドリーが壊れて修理の電話をかけたこともあったな(笑)〉当時はフランス語はおろか英語さえもろくに話せなかったので、観光ガイド本の会話集に載ってた「故障」という単語を電話口でひたすら連呼し、なんとかなりました(笑)。
度胸がつくと「間違ってもいいからもっと話してみよう」と自信が出てくるよね(^^)。
何度か言葉が通じる楽しさや成功体験を味わうと、
また違ってくるんだろうけど、今はその機会を求める
事自体を拒否してる若い人が多いって聞くものねー。
あくまでマスコミの一般評価なので、少なくとも
身近には、どんどん海外に出て好奇心旺盛に
たくさんの外の人たちとコミュニケーションを
取っている人たちもいる、と信じたいです。はい。