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【ちぇりの独り言】人を呪った時と祝った時ではどう違う?みたいなことをツラツラ考えてみるなど

ちぇりの独り言

人を呪わば穴二つって、なんで?

昔から、人を呪わば穴二つ、という諺があありますよね。人の不幸を望むと、自分にも同等の不幸が降りかかる、という意味です。

起源は陰陽師によるとされてる文献をよく見ます。呪詛で敵方の不幸を呪った場合、向こう側もこちらを呪詛で仕返しをしてくるから。

つまり人の墓穴を掘るようなことをするなら、自分の分も掘って備えるくらいの覚悟をしろよという話。

穏やかならぬ話ですが、先日こんなツイートを見まして。

おお…日常で聞きがちなケース。

露骨に上記のような言い方はしないかもしれませんが、疲れてしまうと、ついつい周りの方が楽そう・楽しそうに見えてしまうもの。

自分だけが損をしている気になって、それじゃ面白いくない、となるのはわかります。私も若くて貧乏でブラックな仕事についてた時は、定時で上がれる楽そうに見える仕事についている友達が羨ましかったものです。

実際には色々大変なこともあったはずなのですが、自分に余裕がないと、自分が一番かわいそうに思いがちですもんね。そして周りが悪い!ってことにすれば楽ですもん。その瞬間だけは。(長期的には全くう解決にならないどころかマイナスなんだけど)

これは、呪い。

今より低い位置に引き摺り下ろしてやる、相手を(自分が思う自分と同じ程度に)不幸にしてやるという呪い。これをぶつけられると、本当にしんどい。ツイートの方も言われてますが、キツイ。

言われる側の方も色々大変なことがあるはずなのですが、そこが丸っと無視されているのも辛いですし、単純に人の悪意は暴力だから。

物理的に、いきなり人に鈍器を振り下ろされたら罪になるのに、こう言う言葉での心理的暴力は、あまり罪になりにくいとい言うのは不思議よね。(ひどい場合にはもちろん法的に仕分けられるケースがあるわけですが)

しかしながらこれ、言われた方もきついけど、言った当人にも非常に不利な状況だと思うんですよね。

ちょっと視点を変えて、呪いが及ぼす影響を客観的に見て見ましょう。

呪いの言葉は人に向けても一番大きい影響を受けるのは自分

例えば人の不幸を願うとき。

妬み嫉みに満ちた呪いの言葉が自分の中に渦巻いた際に、一番最初にその言葉が持つ空気に触れるのは自分、新鮮出来立てホヤホヤの、最もその要素を強く持つ状態の不幸な言葉を、自分が一番フレッシュに味わうことになってる。

それを言葉にして吐き出した時も、その紡ぎ出されたばかりのピッチピッチの活きの良い呪いの言葉が最初に聞こえるのは自分の耳。

何事も、何かを発するものの近くにいる方が、その影響を色濃く受けるものかと思うのですが、言葉も同じ。呪いの言葉を発する時、その言葉に一番近いのは自分。その言葉の影響を一番強く受けるのも自分。

と、私は思ってます。
私の場合は実にわかりやすくて、とても疲れてしまったときにネガティブな発言をした際には、たいていすぐに嫌なことを人からいわれる(・∀・;

まさに、人を呪わば穴二つ。単純な人間だから、人より率直にその反応が発生するのかな?と思ってる(苦笑)

人を呪う人を客観的に見るとどうなるか

呪うといえば、藁人形(怖い)。
丑三つ時に、人目につかないよう(人に見られたら効果が薄れるそうですね?)神社の御神木に、憎き相手に見立てた藁人形を五寸釘で打ち付けることで、敵を不幸にする呪いがあるそうですね。

よほど気に入らないことをされたのかもしれない。そんなことをするに至るまでには色々あったのかと思いますが…

丑三つ時、真夜中の暗い神社に一人、白衣に扮し、灯したロウソク2本を額に縛り付け、ブツブツと憎き相手の不幸を唱えながら一心不乱に藁人形を木に打ち込む人の姿を見たと想像してください。

「うわあ!楽しそう!ねえねえ私も一緒にやって良い?!」

とはならないと思うんですよ。まあそもそも人に見られちゃいけない行為なので、そんなこと言ったら、まずめっちゃ怒られると思いますが。

おどろおどろしく、私なら、まず(こわっ!!)と思い、とにかくその場から立ち去るでしょう。好奇心を抱く人はいるかもしれませんが、喜んで近づいていく人は少ないと思われる。

寄っていく人がいるとしたら…

「あのー、私にも呪いたい人がいるんですが、ちょっとそれ、やり方教えてくれません?60分レクチャー3000円くらいでどうやろか?」

という人くらいのものではなかろうか。

藁人形でなくっても、人の不幸を呪ったり、引き摺り下ろそうとしている人には近づきたくない。そんな人が大半ではないかと思うの。

つまり恨み語をを無作法に人にぶつける人からは、人が去る。

去っていく人の中には、もしかしたら去ってくれた方が良い人もいるかもしれませんけど、とても仲良くなれる人がいたかもしれない。パートナーになれる人がいたかもしれない。可能性を持つ人はたくさんいたかもしれないけど…

ひたいにロウソクぶっ立てて、般若の形相で「ありのままの私を見てー♪」と歌ったところでホラーでしかない。

結局、呪う人にとってもとても不利益だと思うんですよね。まああくまで可能性の話にすぎませんが。

物理的にも不利益が生じる、人を引き摺り下ろす行為

今一度、ご紹介したツイートを見てみましょう。

余裕のある人に楽をして欲しくない、という考え方。
感情としては、疲れ切ったときについ、そんな風に思ってしまいがちなのがわからないではないのですが…

実際問題。
楽、という言葉は抽象的なので、身体的に元気な状態、としましょうか。健康な状態。体力にゆとり位のある状況。

若い人は「そんなん当たり前やん」と言うかもしれませんが、ワタクシくらいの妙齢になってくルト、そうあれることはとても楽なことなんですよっ(泣)

対して、身体的に元気ではない人が、「あたしと同じだけあたしに疲れて欲しい。楽して欲しくない」と言う要望を出したとしましょう。

そしてそれを「わかりました」と、相手が呑んだとします。結果、二人とも不健康になりますよね。気力体力、どちらもなくなる。仕事にも身が入らず、食事を作ることすらままならない。するとどんどん不健康になってしまいます。二人とも。

しかし相手に余裕があったなら、疲れている側を助けることもできると思いません?

どん底にいる人を引き上げられるのは高みにいる人であるはずなのに、何故、深い井戸の底で共に動けなくなろうとするのか。

こうなると、本人が気づくのは難しいかもしれません。健康なときには「ああ、それはしかるべきところに助けを求めた方が良いな」と思えても、人間状況が追い詰められると判断力を失うもの。これは人格、能力に関係なく、そうだと思います(そこを突破できる人はほんとうにすごいのですが)。

だから周りの助けが必要になるのですが、それもまた心理的には専門的な知識を必要とすることなので…

せめて、その要求に巻き込まれないようにするのは、大事な一手かもしれません。井戸の底に降りて一緒にそこに止まるようなことは避ける方が賢明かな?と思うのです。

巻き込まれずに、相手を引き上げることができればなによりです。でも相手に遠慮して自分が楽しいと思うこと、チャレンジして見たいことなどに制限をかけて可能性を潰すことは、結局目の前にいる人を引き上げる機会を減らすことになりはしないか、と思います。

非常に極端に言うと、そこで一旦距離を置くのもまた、関係を維持するのに必要な選択だということもあるでしょう。

引き摺り下ろそうとする人には巻き込まれないように線を引くこと、大事。自分のためにも相手のためにも。

公平を目指すなら高みを目指そう!

自分は苦しいのに相手は楽して(そこに伴う努力や苦労はガン無視してることが多いので思い込みなんですが)不公平だ!というのがが原因での不満なら、公平になれば良いんですよね、

でもその均衡を低いとこに求めるのは勿体無いなと。均衡というのは高いところでも取れるはず。そこを目指した方がお互い幸せではないかなあ?と思うのです。

それでも尚、どちらを選ぶかは個人のお好みなので、人を引き摺り下ろすことを選ぶと言われるならそれも自由で、引き摺り下ろされたい💖と思われる方がいるなら、それも自由なのですが…

巻き込まれる側には選ぶ権利があるので、思う相手のことでも、巻き込まれるだけが選択肢ではない、ということは覚えて穂いた方が良いかなと思うのです。

呪いの変形版・祝えない

さて、ワラとか五寸釘1本だけとか揃えるの大変そうなので、藁人形を打つとこまでの方はなかなかいないと思いますが…(そういう問題でもない)

人の成功や嬉しいことを喜べない。これも実は呪いの一種。

例えば事業で成功した人、例えば結婚が決まった人。タイミングによってはそんな話、聞くのがキツイこともありますよね。でも…

それ、成功した人の視点からすると、

「成功したら恨まれる」

という形になってますよね?
そして誰よりも恨んだ本人が、その概念を自分自身に刷り込むことになる。

成功した人を恨む人間がいる、という存在を間違いなく自身が体現してるのだから、その真実味の深さったらない。

しかし誰だって人に恨まれるのは、特殊なご嗜好がない限りは嫌だと思うんですよ。恨まれたくない、というのが大方の人の希望じゃないでしょうか。

では、恨まれないようにするにはどうしたら良いか。このケースに関しては、

成功しないこと、なんですね。

幸せになりたい、と表層的には思ってるのに、「恨まれたくない=成功したくない・幸せになりたくない」と、強烈な概念を無意識化に自分で植え付けてるから、まー先が長くなる。なんてもったいない。

人が幸せを掴んだときに喜んであげる。これってなんか偽善的?優等生の答えだわあ、と思ったりしませんか?

ノンノンノン。
これは実に合理的で実利的な言動だと私は思うのです。もちろん心から言えることに越したことはありません。その方が自分も自然で苦労がない。それこそ楽チン。

ですがパッと感情が先に走って、うっかり妬みの気持ちが起こったとしましょう。しゃーないしゃーない、そういうことは誰しにもある。

でもそこをぐっと呑みこんで!
言葉上だけでもお祝いしたげる。そんな無理を何故するかというと、

「幸せになるのは祝福されること」

という概念を誰よりも自分が持つために。
人の祝い事をそんな風に利用するなや、という声が上がるのはごもっともなんですが、恨むよりはね、ずっといいと思うんですよ?

空虚な言葉だったとしても、式場に般若の顔で座られるよりは、祝われる側も心穏やかだろうし、恨む代わりに祝いの言葉を口にする方が、その人の先の利にもなる。どっちにもお得だと思うのですよ。

腐る気持ちもわからなくはない、けど…?

これは、なかなな時間、人間やってきて思うこと。

私なんかも、若い頃には妬みそねみを口にしたこともある。でもほんと、それで良いことなかったです。

やったことは自分に返ってくると言うけど、あれは単なる言い回しではなく、事実。人に対してひどいことを言ったり幸せを妬んだ瞬間に、自分に強烈な呪いをかけてたなと、いまではつくづく思います。

感情は、制御できないこと多いですよね。感情を理性でなんとかしようとしても、うまくいかないこと多いです。

なら便宜上、損得で考えて見ませんか?という話。

人を貶めたり、人の祝福を喜べないときは、そうすることが損になるのか特になるかを考えて行動決めても良いと思う。

人間多くの場合、できるなら損はしたくないと思うものかと思うので、これは結構ブレーキになる。というか、自分自身がそれに助けられたことがありました。

得がなければ動かない、と言うのは美しくないかもしれませんが、感情に任せて周囲を傷つけ、結果自分も不幸になるよりずーっと良い、と思ってます。

人を呪わば穴二つ。
人を祝えば福倍増!

そう思えるようになってから、随分と楽になった気がしますので、一筆まで。

人を恨むことが辛い人にも。
筋無く恨まれて、自分の枠を縮めようとしてしまう人にも、届くといいなと思っています。


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